お釈迦様の弟子1250人の中に『神通力第一』と言われた目連(もくれん)という方がおりました。
この目連が神通力によって餓鬼道に堕ちて苦しんでいる母の姿を視て、お釈迦様に「何とか母を救えないでしょうか?」と尋ねると、お釈迦様は「7月15日にお供え物をたくさん用意してご供養してあげなさい!」とお答えになりました。
目連はお釈迦様の教えに従い行った法会が、今のお盆(盂蘭盆会)の行事になったのです。
お釈迦様は目連の神通力を認めてくださっていたわけです。
そのお釈迦様の弟子である日本の僧侶の中には≪神通力≫も≪霊の存在≫も認めようとしない人たちがおります。
そんな≪霊の存在≫を認めようとしない人たちがお盆やお彼岸に霊供養をするのですから不思議でなりません。
≪霊の存在≫を認めようとしない人たちの供養が通じるのでしょうか?
≪霊の存在≫を認め、霊の心を理解しようとする人間に供養してもらってこそ、霊の心は癒されるのではないでしょうか?
修行者の中にはこの目連のような≪神通力≫を得ようとして荒行をする人たちがおります。
しかし、これはとんでもない間違いです。
荒行をしたとしても≪神通力≫は得られません。
荒行はただの自己満足に過ぎず、傲慢になるだけです。
本来、修行の目的というのは【自我】を捨てる事にあるわけですから、修行者が傲慢になったら終わりです。
≪神通力≫というのは無理・無茶をせずに、自然体で修行をしているうちに、副産物として与えられるものなのです。
私が住んでいた柏市には親子3代に渡って和菓子屋を営んでいたお店がありました。
そのお店の先代の店主さんは、毎月必ず守ってくださっている3ヶ所の神社へ【御礼詣り】をしておりました。
このように修行は自分に必要な神社や仏閣に無理をする事なく、しっかりと【御礼詣り】を続けていけばそれで充分なのです。
自宅においては神様・仏様・ご先祖様に対して、朝起きた時には「おはようございます。日々私をお導きいただきありがとうございます。」
ご先祖様に対しては「幸せに生まれ変わりください。」
そして一日の終わりには「今日も一日お導きいただき、ありがとうございました。」という感じで良いのです。
私たちは外出する度に、知らず識らずのうちに様々な邪気や悪い霊気をいただいています。
それらのモノを祓うために、帰宅したらまずお風呂場へ向かい、シャワーなどによる【みそぎ】をすると快適に過ごせると思います。
本来、【みぞぎ】というのは海でやるものですが、神事などの前には川などで身を清め洗う事もあります。
『水の浄化力によって身を清めることで、神様へ近づく事が許される』 というのです。
この【みそぎ】という言葉は、身を水ですすぐ事から生まれたとされています。
修行とはほんの些細な事の積み重ね、日々の心掛けがとても重要なのです。