修行者として修行するということは【学びに行く】ということです。
修行者は師匠の所へ【学び】に行っているわけですから、
その師匠に自分の意見をぶつけるようになったなら、
もう修行者とは言えません。
その修行者には【学び】の姿勢がどこにもないからです。
修行者が師匠に対して一人前の事を言えるようになったのなら、師匠の元にいることはありません。
自立すれば良いのです。
我々の場合は『一徳』もそうですが、
基本的に『宗〇・妙〇』の名前をもらっている者が修行者であり、
それ以外の方々は相談者ということになりますから、
相談者の方々であれば自分の意見(思い)をぶつけても何等差支えはありません。
世の中にはこの【修行の世界】のことを理解できずに、
≪独裁≫や≪洗脳≫というような言葉で表現する方々がおりますが、それは認識不足です。
そのような方々は一度福井県の【永平寺】にでも体験入門でもしてくれば良いと思います。
師匠というものは修行者を一人前の人間に育てあげる為に、時には苦言を呈しながら教育していくわけです。
この教育の仕方が納得できない者は静かに去っていけばいいだけのことです。
師匠というのは修行者(弟子)の立ち振る舞いを見ていれば、どれだけ修行が進んでいるのかがわかるものです。
ですから余計な言葉などいらないのです。
口数の多い者は体より口の方が動いている事の方が多いので修行不足になりやすいと思います。
災いは口より出でて身を破るのです・・・。
人生において「あれさえ言わなければ・・・」
という事があります。
口は禍のもとです。
私の弟子に≪妙光≫という者がおります。
≪妙光≫は約15年間ずっと私と共に修行した仲間です。
立場上は【師匠】と【弟子】のような形になっておりますが、修行の年数や修行してきた内容からすると、
まさに【同志】です。
≪妙光≫は一度も私に口答えをしたり批判したりしたことはありません。
長く共に過ごせばそれなりに言いたい事もあるはずなのですが、妙光は決して言わないのです。
これが【師匠】と【弟子】の関係だからです。
夫婦はよく喧嘩するものです。
これは対等な立場だからです。
夫婦なら喧嘩をしても問題はありませんが、
【師匠】と【弟子】の関係は対等な立場ではありませんから、喧嘩は破門を意味します。
師匠に意見を言えるようになったなら、もう一人前なのですから静かに師匠の元を去るべきです。
それが修行者(弟子)としての態度だと思います。
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