7-1.霊視にまつわる話
By.浦村 大
日宗先生に週一回程、家に来ていただいて
マッサージ治療を受けるようになって、早12年余りになります。
あるとき先生がマッサージをしながら
「庭の方で白い着物を着た人が、男の人と女の人が立ってこちらに向かって何かを訴えていますね。
男の方は体が大きく四角張った顔をしていて、女の方は髪を肩まで伸ばした若い方なんですけど、
心あたりはありませんか?今あるお寺で、無縁仏になっているので早く探してほしいと仰っていますよ。」
霊視してくださいました。
私には、すぐに、昭和のはじめごろ若くして病気で亡くなった母方の叔父と叔母であると察せられました。
叔母は、勝代さんと云って美人薄命で昭和5年19歳で結核のため亡くなり、
おばさんと呼ぶには若すぎました。
当時、私は4歳くらいで病人の枕元で騒いで、いつもうるさい子だと嫌がられていたようです。
葬儀の祭壇に何かいたずらしているうちにろうそくの火が着物に燃え移り大騒ぎになり、
「きっと勝代さんがまた怒ったのだよ。」と諭されたそうです。
叔父は正男と云って体が丈夫で海軍に入営、3年で満期除隊して印刷工場で働いていたようです。
私の母は長女でしたが、体が弱く、
私を出産してまもなくセキズイカリエスを患い入退院を繰り返しておりました。
そこで、私はほとんど祖父母に育てられ、叔父もすごく私を可愛がってくれました。
その後、叔父は、結婚しましたが、そのお嫁さんがまた、私を可愛がってくれたのです。
しかし、叔父は子供ができないうちに、昭和9年29歳の若さで結核でなくなってしまいました。
叔父は日蓮宗を信仰しておりました。
会社が終わってから、信者達と白装束に身をかため、
団扇太鼓を打ち鳴らし毎晩寒参りをしていた姿が今でも目に浮かびます。
その後の昭和19年、20年は我が家にとって最悪の年でした。
私は国策にそって、川崎市の軍需工場で働かされており、会社の寮に入っていました。
その頃、私の祖母が友人を訪ねて行った五反田で脳卒中で突然倒れました。
父が駆けつけて、祖母をやっとの思いで家に連れ帰りましたが、
以後祖母は半身不随となってしまいました。
ところが、先ほど書いたように介護する立場の私の母は病弱でした。
ですから、看護で母自身が倒れそうになってしまい、
止むを得ず祖母を幡ヶ谷の親戚の家に預かってもらいました。
それからしばらくして、昭和20年5月11日、
以前から体の悪かった父は戦時下でろくな薬もないため、50歳で他界してしまいました。
全てのものが欠乏している時代、すこぶる簡素な葬式しか出して挙げられませんでした。
そんな事情で、一家を支えなければならなくなった私は、
早朝5時に家を出て2時間かけて通勤することになったのです。
そして、5月24日の東京最後の空襲で私が育った牛込山吹町一帯も焼夷弾の嵐に見舞われました。
形容すれば、火の洪水!
即、父の戒名をポケットにしまい、かねて用意した荷物を背負い、
母の手を引いて護国寺方面へ大勢の人と命からがら逃げました。
朝になり、方々まだ、火はくすぶっていましたが、火災は一応収まったようでした。
私は、自分の家がどうなったか気になって、母を待たせ一人で見に行きました。
江戸川橋を渡ったあたりから、そこ等じゅうに焼死体がゴロゴロ転がって、
まるで地獄絵の様相を呈しており、まともに歩けなくなってしまいました。
消防車も何台か焼けただれておりました。
消火活動に当たっていた人も多く亡くなられてしまわれたのではないでしょうか。
遠くの焼け残った小学校の避難所に集まった人は皆、誰もが放心状態でした。
母と相談して、「ひとまず幡ヶ谷の親戚の家に行こうか」と言っていたところ、
その親戚の叔父さん(父の妹の夫)が私達を散々探してくれ、見つけ出してくれたのです。
ところが、叔父がいうには
「幡ヶ谷も焼けてしまったので、これから家族を連れて
自分の田舎である群馬県鬼石へ疎開するが、幼い子二人と乳児を連れているから、
預かっているあなたの所のお婆さんは連れて行けない。そちらに戻す。」
ということでした。
そこで、相談した結果、叔父が祖母をリヤカーに乗せ、上野駅まで連れてきてくれることになりました。
そこで、私達と合流して私達の田舎、仙台へ3人で行くことになりました。
本当は仙台にいくことは、母もあまり気が進まなかったのですが、
致し方なく3人とも上野発の夜行列車に乗りました。
戦時下、汽車の切符を買うには大変苦労がありました。
近距離の切符は早朝窓口に並べば、枚数制限があっても何とか買えるのですが、
遠距離切符は市区町村長の証明書がなければ買えなかったのです。
しかし、戦災にあった者には必然的に羅災証明書が発行され、それを改札口で示せば
遠距離連射も家族同伴運賃無料で目的地まで行けました。
羅災証明書
ただし、往きの一回きり・・・
翌朝、仙台につき、叔父の家にたどり着いたとき、いやな予感があたって、
その後母の苦労が待っておりました。
しかも、それから数日後、私に召集令状が届きました。
俗にいう赤紙です。
入隊日がすでに数日過ぎており、地元の憲兵隊に出頭して証明書を発行してもらって
6月6日、夜仙台を後にしました。
戦時中であり、軍隊に入るのは当然と思っておりましたので平気でしたが、
後に残る母達のことが非常に心残りでした。
しかし、翌朝私は、千葉県国府台の部隊に入営したのです。
仙台での母達は、私が出征した後1ヶ月くらいたった頃、叔父の計らいで
祖母と二人どこかのアパートで暮らすことができたそうです。
しかし、安心したのもつかの間、数週間後、またまた真夜中に空襲にあい、
祖母と母は、火の中離れ離れになってしまいました。
ふたりとも命は助かったものの、祖母は大やけどを負って、病院に収容されたそうです。
母は、福島市内の知人のうちに世話になっていましたところ、
死んだとばかり思っていた祖母が大やけどで入院している知らせが来てびっくり!
母自身辛い体を引きずるようにして看病にむかいましたが、すでに危篤状態だったのです。
私の方は、軍隊生活は、学校時代軍事教練も学科になっていたので、
訓練が苦になるということはありませんでした。
しかし、防空壕堀りとか、重い機材の運搬など重労働には参りました。
敵が本土に上陸してくることを想定して、対戦車肉薄攻撃などのくだらない演習をしていましたが、
8月15日をむかえ、終戦となりました。
これで、死なずに済むと安堵感が湧きましたが、
軍隊内部ではあれこれ情報が飛び交い日々不安な状態が続いていました。
やがて、9月2日軍隊は解散し、千葉駅から晴れて自由行動となりました。
復員兵は営外転出証が発行され、これを駅の改札口で示せば、
羅災証明書と同様に無料で汽車に乗れました。
営外転出証
9月3日、仙台駅に下り立ち、かねて母から知らされていた住所にむかい、
やっと無事に母のもとへ復員することができました。
ところが、その前日に、祖母は亡くなっていたのです。
もう60年前のことなので、どこで遺骨にしてもらったのか記憶にありませんが、
母と二人きりで葬式をした覚えがあります。
もう一日前に復員できていたら・・・と悔やんでも悔やみきれない思いでした。
その後、終戦の混乱期を何とか乗り越え、昭和24年仙台に残っていた母を東京に連れ戻し、
勤務先の銀行の家族寮に入居させていただいて、やっと母子で生活できるようになりました。
やがて昭和26年5月には結婚いたしまして、女の子、男の子一人ずつにめぐまれ、
母もおばあちゃんになれたことを大変喜んでおりました。
生まれつきひ弱な虚弱児童で一人っ子であった私が、
世帯を持ち二児の父親にもなれたので母も安心したのか、
どっと病床に付し看護のかいもなく、
昭和30年53歳で苦労の多かった人生を閉じました。
このとき、父や祖母にしてやれなかった世間並みの葬式を行う事ができました。
戦前に父が池袋の本立寺に墓地を購入してありましたので、
母の一周忌に墓を建て父・母・祖母を納骨いたしました。
それから、年月も経ち、お彼岸のお墓参りに行くつど、
正男叔父、勝代伯母、祖父が眠っていたお寺やお墓が戦災にあった後
どうなっているのやら気がかりでなりませんでした。
そして、前述のとおり日宗先生の霊視があったのです。
私は叔父と伯母のお墓を探すことにしました。
戦前はお彼岸にはいつも父に連れられ、3〜4箇所のお墓参りに行ったものでした。
しかし、昔のことで、叔父達の眠っているお寺の名前はわからなくなっており、場所もうろ覚えです。
でも、あるお彼岸の日のうちのお墓参りをすませた後、
再び早稲田界隈を訪ね歩いてみたところ、龍善寺というお寺がありました。
そこの奥さんと話をしていたら、和尚さんが出てこられ、早速過去帳を調べてくださいました。
すると、そこには、霊視で出てきた正男叔父、勝代叔母、そして、昭和10年60歳で病没した祖父が
無縁仏として載っていたのです。
やっと探し当てたと安心いたしました。
現在は我が家の過去帳に載せ、命日に供養してもらっております。
- 日宗 -
浦村 大様には、第2次世界大戦にまつわる体験談と羅災証明書及び営外転出証という、
戦時の大変貴重な資料まで提供していただきました。
心から、感謝申し上げます。
ありがとうございました。
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