3.『幸せ』とは何なのか?
by:H・T
[はじめに]
みなさんにも、人生の中で、大変な時期ってないでしょうか?
私はこの1年、色々なことが重なり、つらく思うことがたくさんありました。
今、多くの人や、見えないものの存在によって助け出され、ようやく安心して深く息をつけるようになりました。
幸せになるための大切な一歩を歩みだせた感じというのでしょうか、
いやむしろ既にこの時点で今まで経験したことがないような幸せを実感しているような気もいたします。
[お伝えする前に]
私は、人生色々なことが起きるし、人の気持ちも変わるものと思っていたので、
ここの霊視を受けだしてから、私の身に起きたこと、感じたことを今まで文章として表さないできました。
文章として表した後に、もし数か月、数年たってから気持ちが変わってしまったら、
一回発してしまった言葉は取り消すことができないと、慎重になってきたためです。
けれども初めてこちらで霊視をしてもらってから、すでに6年が経とうとしています。
見聞きした体験をお話しするに、ただの偶然を勘違いしていたり、信じてよいものかどうかを見誤ったりすることはないと思うのです。
それに私自身、多くの人の人生に関わる仕事をしていて、冷静に物事を判断しょうとする習性もあります。
誰かを実状以上に持ち上げたり、体験についての評価が甘くなったりすることも少ないのではないかと思います。
真実により近い姿を把握した状態で、話をさせていただくことができるのではないかと思います。
[通うようになった流れ]
私がこちらに通うようになったのは、平成21年の春間もない頃でした。
その頃の私は特に何も自分自身のことに問題を感じることもなく過ごしていました。
何かを感じたり、見えたりするわけでもなく、スピリチュアルなことに関心はあったとしても、
ただこの世の中の見方や価値観の一つとして、興味があったにすぎませんでした。
私自身勘は強く、人間関係や仕事に通常の範囲で悩んだり、
身体的な不調があったとしても仕事や家庭生活にすごく支障があるわけでもなく、そのこと自体当たり前のものとして生活していました。
だから、知り合いの紹介で自分がここに来だしてからも、なぜ自分が通っているのか疑問に思うときがあったほどです。
日宗先生から言われたことをすべてできるわけでもなく、やっても、これで良いかも皆目わからないままでした。
けれども先生から「がんばってますね〜。神様が喜んでいますよ〜」と言われると、
「そうですか⤴」と調子にのって、人が(正確には人ではないのですが)喜んでくれるんだったらもう少しやってみようと思い、
そのうち先生の裏表が全くない誠実な人柄もわかり、悪い気持ちが起きないから続けていたというのが正直なところです。
[信じることができる人]
けれども、これだけの年月、悪い気持ちが全く起きないということもすごいことなのだと思います。
私は、人についての意識が高く、人の内面にあるものをかぎわける性質だからです。
日宗先生も人間なので、(また偉そうにふるまったりしない方なのでなおさら)人間らしい面も見せますが、
ただ人間らしいというだけのことで、内面に人に対しての良くない思いを抱えていない方です。
多くの人と会ってきて、それは非常に珍しいことだと言わざるを得ません。
また裏表がない上に、基本、人に対してのやさしい気持ちを人一倍持っている方だと思います。
人を良くしたいし、その方法もわかっているにもかかわらず、自分が代わりにやれるわけではない。
そのことをはがゆく思ったりすることはあるかもしれませんが、
その人が何度でも一生懸命やろうとすれば受け入れてくれる基本を持っている方です。
そのように他の人のことを自分の身内のように思い、その人が一生懸命やっているときに全力で支援しようとする態度や、
それがなかなか到達しない時にご自身の修業を重ねていく姿を見て、
この人の言うことを信じてやってみようという気持ちになったというのが実際のところです。
私には霊的に教えてもらったことが同じように見えるわけでもないので、
言ってくださる人が信じるにたる人かどうかが基準になるわけですが、
そのような“この人を信じてみよう” ”このことを信じてみよう”という態度や覚悟こそが、
私たちが生きていくうえで一つの重要な要素のような気もしています。
そのような人が、この大変な時期に言ってくださった「大丈夫ですよ~」という言葉は、本当に信じるに足るだけのものがありました。
先生が神様からの言葉を伝えてくださってそう言ってくださっているわけですが、
やはり伝えてくれる人自体が信頼に足る人でなければなりません。
お金を儲けようというわけではなく、また自分の利益になるわけでもないのに言ったり、してくださったことが、今までも数多くありました。
そのこと自体が、この方が信頼に足る人であることを証明してくれるような気がします。
[今回の出来事]
今回の出来事は、過ぎ去ってしまえばただ半年間の出来事でした。
私はある1日を境にして、やっていた事業も、仕事上での人間関係も、
その土地でのお客さんや友達と言われた人たちとの関係も大方のものがなくなった出来事がありました。
今は嵐が過ぎ去ったかのような安堵感や、そのあとの再び生活の基盤を構築しなければいけない精神的な頼りなさや焦りの時期も過ぎ、
今ようやく新たな人生のための土台作りに前向きな気持ちで取り掛かれるようになりました。
振り返ってみれば、不思議なことばかりの半年でした。
大きな出来事があって、本当に心を痛めましたし、泣いて暮らした日々もありました。
もうだめだと崩れそうになる気持ちを必死に耐えていた時期もありました。
大きな波が去った後も、すべてを失ってしまったのではないかという喪失感や
自分の居場所がなくなったような気持ちになった時もありました。
けれども本当に大きな損失があったかというとそれほどでもないようなのです。
金銭的にも、人との関係もそれほどの損失は結果的になかったようなのです。
むしろ、腐れ縁のような関係や、表面的には私に良いことを言っていても内心とんでもないことを思っていた人たちとの関係が、
大水によって流されたかのようになくなり、その時助けていただいた『良い』人たちとの関係が、
すくすくと育つ環境を与えられたかのようになっています。
疎遠だった家族との関係が復活したり、今まで全く範疇外だったより広い世界に触れるようになりました。
そして大事な人たちとの愛情ある関係が育っているように思います。
金銭的にも大きな出費を覚悟した時もあったのですが、その心配がなくなったどころか、
そのような覚悟した時があったからこそ他のもっと問題となるような事柄が起こらなかったということもありました。
今回の不思議な成り行きは、多くの縁によって支えられているといってよいのではないかと思います。
それはここで教えてもらったパワースポットで得られた縁と、ここで得られた人間関係のおかげといってよいでしょう。
[ここで得られる幸せな事々]
今回の出来事の前から、私の周りで起こる事柄は、不思議といえば不思議なことばかりでした。
パワースポットなどへのお参りにかけたお金を心配することもありました。
けれども別の事で大きな額のお金が返ってきて、儲けたわけではありませんが、
結果的には金銭的なことを心配する必要はない状態になっています。
私たちは幸せになりたいと考えますが、それがどのようなものなのかははっきりとはわかっていないのかもしれません。
通常考える『幸せ』や、『幸せを得る方法』とは少々違った形で本来の幸せとはやってくるものなのかもしれません。
例えば離婚をしないで今のままの暮らしを多少不満もありながら続けていくのか、
離婚は大変かもしれないけれどよりよい伴侶が見つかるという託宣のもと行動を起こし、
より穏やかで自分や自分との生活を大切にしてくれる新しい伴侶を見つけていくのか。
その時々の言われたお参りをしないで、かかるはずのお金を将来のために貯めていくのか、
金銭的に心配にはなるけれどその時のできる範囲でお参りをし、
なぜかはわからないけれど結果的にやりくりできる状態になっていくのか。
私がここに来て学んだのは、何よりも『幸せとは何なのか』ということと、『幸せになる生き方の基本ライン』でした。
通常のお金が沢山入りますようにとか、今の暮らしを続けていけますようにとかは別の、その人が無理をすることなく、
かつできる範囲の努力もし、しみじみと自分なりの人生を過ごせるようになること。
それが幸せになるということなのではないかと、今は思います。
清らかな気を吸って、清らかな場の中にいることを感謝すること、というと少々抽象的に聞こえるでしょうか。
[幸せになるための方法]
先生は、その人の『ご先祖様』や『前世』のことについて伝えてくれると同時に、
現実にある問題に対してどのような見方をしていけばよいのか、どのように対処していったらよいのかを教えてくれます。
目に見えないものが存在すること、
人との出会いや起きている出来事には意味があること、
未来についてはある流れがあるけれど、自分でその流れを良いほうにしていくことはできること、
今、目の前で起きていることがよいことなのかそうではないのかという判断、
良いものに対しての感謝するという礼儀や、
よくないものについては防御する手立て。
一見わかりやすそうでいて、即物的な世界にどっぷりと浸っていて本当の幸せについて見失いがちな私たちにとっては、少々難しいことなのではないかと思います。
そのような私たちを導いたり応援してくれる先達が、日宗先生をはじめとするここのスタッフの方たちだったりするのでしょう。
先達が私自身の代わりに生きていってくれるわけでも、全責任を負ってくれるわけでもありません。
私自身の責任において、今後私自身の人生の行き先をどうしていくのか、そしてその道を誰に尋ねながら歩いていくのか、私自身が問われていることなのだと思います。
けれどもそれは苦しい道ではなさそうです。
四国八十八か所参りをしたときに、初日2日目と車中で首を絞められたり、身体が非常に重だるくなるような感じを経験しました。
それは私自身がよくなることに邪魔立てしようとしている存在がいたり、
各寺社においての目に見えない存在のせいだったりしたわけですが、そのたびごとに、スタッフの方がお祓いをしたり、気持ちを支えてくれました。
正直、一人で行ったり、そのようなことを知らずかつ対処できない人たちと一緒では、危険な場所もいくつかあったようでした。
はじめは苦しかった感じもお参りが進んでくるうちに薄れていき、次第に本質的なものを感じるようになってきました。
それは各寺社でろうそくに火をつけ、線香を立て等々、いくつかの教えてもらったお参りの手順を何回も続けていくことで感じる本質的直観的な静かな幸せでした。
生きるということは苦しいことではなく、そのようなよいことを積み重ねていくことで幸せを感じるものなのかもしれません。
そしてその直観はただ座して待つのではなく、身体を動かす行為によって得られるもののようです。
[特別な感覚]
いくつものお参りをしていく中で、虹色の光やオーブが入る写真がとれたり、
不思議な物音やにおいや影のようなよい『現れ』は、しみじみと感謝しながら感じてよいものだと思います。
お参りをしたから、また『現れ』があったから必ず願いがかなうはずという、ある人やある事柄に頼りすぎる考えではなく、
私たちがよりよい道を進んでいるときの、その道を照らし出す灯として『現れ』を感じながら、
自分自身がよいことを続けていくという行為こそが大事なのではないかと思います。
異質なことでもなく、特別の集団がしていることでもなく至極大切なこととして、
目に見えないものについてのアドバイスを受けていくということを、私は今後も続けていくことになると思います。
道を照らす灯をみながら、私自身の足で、これからの本当の私の人生を生きていくことの幸せを感じながら。
TOP / 体験記目次