29.進むべき道


今頃の時期は『希望に夢膨らませる人』と『絶望感に打ちひしがれている人』とが入り混じっている時でもあります。

 

 

私は子供の頃から『葬式坊主』ではなく、滝に打たれ必死に修行する【僧侶(修行僧)】に憧れを抱いておりました。

 

その憧れが叶ったのが平成6年の今頃でした。

 

私は【僧侶】になるために岐阜県美濃加茂市にある【正眼短大】に入学したのです。


当時、私は31歳でした。

 

同級生の殆どは私よりも13歳年下でしたが、同級生の中には56歳の女性一人・52歳の男性2人(お一人は北海道の大学の医師)、そして社会人入学の方々が数名おりました。

 

あれから25年が過ぎ、私も56歳になりました。

あの頃、56歳の女性は自分の息子や娘と同じぐらいの年頃の子供たちと一緒に修行をしていたわけですから凄い人だったなぁ・・・と思います。

 

その彼女も今や81歳になっている筈です。

 

あの頃の私は仏教学・哲学・心理学・漢文・書道・サンスクリット語などを学んでいたのですが、勉強がこんなに楽しいものなのかと驚いたものです。

 

好きな勉強をするというのは苦痛を感じないものです。

 

あの当時『現代国語』のようなものを教えてくださっていたのが紀野一義先生でした。

 

紀野一義先生は当時72歳だったのですが、毎週、東京の狛江市からBМWを運転し、岐阜県美濃加茂市伊深の【正眼短大】まで通勤していたのですから凄いパワーだったと思います。

 

私は紀野一義先生の『藤沢周平』の作品の講義がとても好きでした。

 

その『藤沢周平』という人物が、私の一番古い相談者の恩師だったという事を知ったのはそれから数年後の事でした。

 

【縁】というものは凄いと感じたものです。

 

 

私は【正眼短大】におりました僧侶の師匠に『宗哲』という僧名を頂きました。


あの時の喜びというのは今でも忘れられません。


その後、私には岐阜県大垣市の【長勝寺】の住職にという話が浮上したのですが、ちょうどその頃に、私は一本の電話により【正眼短大】を家庭の事情で中退せざるを得なくなり千葉県柏に戻って参りました。

 

あの時の絶望感は今でも忘れる事が出来ません。

 

私は毎朝、新聞配達のバイクの音が聞こえて来る時間まで眠れませんでした・・・。

 

私の人生は32歳からドン底の世界へと入って行ったのでした。

 

そんな時が半年以上続いていた平成7年1月17日の朝、テレビをつけると【阪神淡路大震災】の映像が目に飛び込んで来ました。

 

ボ~ッとテレビを見つめている私の後ろでは、2歳になった息子の一徳が私の頭全体にシールをベタベタと貼り付けておりました。

その息子の一徳が、今では私にとって無くてはならない存在になっているのですから、歳月の流れというものは早いものです。

 

私は【阪神淡路大震災】の後に日蓮宗の僧侶に出会い、その方から【日宗(にっそう)】と名乗れば良いと言われ、私はそれからずっと【日宗】を名乗るようになったのです。

 

私の人生が上向きになり始めたのは35歳からでした。

 

そして36歳の時に【出羽三山の山伏修行(8月24日~9月1日)】に参加し、7日間断食をしながら修行を続けたのです。

 

私はその時にようやく【私の進むべき道】を見つけたのでした。

 

【人生というものは困窮している時】こそが色々な事に気づき成長できる時なのです。

 

だからこそ下ばかりを見て歩いているようではいけません。

 

【不遇の時】こそチャンスの時でもあるのですから・・・。



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