156.1200年ほど前、朝廷軍との戦いがあった・・・


先日、岩手県一戸にある【御所野遺跡】へ行って来た。

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古の縄文文化に触れてきたのだが、意識のチャンネルを遠い時代に合わせ想いを馳せるのはとても楽しい。

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下記のものは数年前に頂いた『巣伏(すぶせ)の戦い跡』の資料である。


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『今泉遺跡にムラが栄えていた頃、大和朝廷は律令をもとに全国の土地と人々を支配し、税を納めさせることにしていた。



朝廷は、東北の人々を蝦夷(えみし)という呼び方をして、無理に従わせようとした。



蝦夷とはくらし方や考え方が遅れている人々という意味だ。



しかし、東北の人々は、リーダーのもと、自分たちなりの暮らし方をしていたので、そう簡単には従わなかった。



8世紀の後半になると、朝廷は、胆沢地方に的を絞り、何回も戦いをしかけてきた。



延暦8年(789年)3月、朝廷軍は、52800人の兵士を連れて衣川にやってきた。



6月、軍を前・中・後の3つに分けた朝廷軍は、水沢区の東側にある巣伏村を目指して動き出した。



前軍は北上川の右岸、中・後軍は左岸を進んだ。そのとき水沢区の東側にはアテルイという人がいた。



アテルイは、部族毎につくられていた戦士団をまとめ、そのリーダーとなって朝廷軍と戦った。



左岸を進んできた中・後軍は4000人だった。


それを300人で迎えた。もちろん朝廷軍が優勢だった。



しかし、巣伏村で中・後軍と一緒になろうとした前軍は、アテルイ軍に止められて川を渡ることができない。



アテルイ軍には800人が加わって反撃、さらに400人が現れて朝廷軍の後ろをふさぎ、ついにはアテルイ軍の勝ちとなった。



このように少ない人数で大勢の軍を破った戦いは、日本の古い時代にはなかった。



この戦いを巣伏の戦いといい、「続日本紀」という古い本に詳しく書かれている。


この後、朝廷軍は延暦13年(794年)と20年(801年)にも攻めてきて、戦いは長く続いた。



アテルイはほとんどの戦士を失い、土地も荒れ果て、食料もなくなり、弱り切ってしまった。



延暦21年(802年)4月、アテルイはとうとう朝廷軍に従うことにした。



そして、都に送られたアテルイは、9月、一緒に送られたモレとともに処刑されたのだった。



それにしても、アテルイという人はいつ、どこで生まれ、どのような人だったのだろう。



アテルイ側に書き残した資料がなく、朝廷の記録にも非常に少ないため、アテルイについては分からないことがたくさんある。』



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朝廷から蝦夷(えみし)と蔑まれていた安倍氏の末裔が、安倍晋三内閣総理大臣である。



その蝦夷だった者が今の日本を牛耳っているのだから歴史は面白い。



是非、安倍晋三内閣総理大臣には良い政治をして頂きたいものだ。





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