宮城県仙台市(定義如来)編
今から約八百年前、平重盛公(内大臣・小松殿)が平和祈願のため中国の欣山寺に黄金を寄進した。
その際に送献されたのが、阿弥陀如来の宝軸でした。
平家が壇ノ浦の戦いに敗れた後は、平重盛公の重臣・肥後守平貞能公がこの宝軸を守り、
源氏の追討を逃れるため名を定義と改め、この地に隠れ住みました。
それが定義如来という呼び名の由縁です。
その貞能公は建久九年(1198年)7月7日御年60歳で亡くなられましたが、墓上には小堂を建て如来を安置し、
後世に伝えていくことを従臣たちに遺言しました。
それを守り、宝永三年(1706年)には早坂源兵衛が出家し、極楽山西方寺の開創となりました。
この境内には、天皇塚があり安徳天皇の遺品を埋め、冥福を祈ったと伝えられています。
落人達の生活ぶりはというと、定義の里に小堂を建てて如来像を安置してからは、
他部落との交流を断ちその後 伊達藩の領有地になるまで、この部落の人々は平氏をしのび、
他との縁組も絶対許さず、純血を守ることに平氏の誇りを感じていたそうです。
また、平家の守り本尊である定義如来と青麻神社(源氏方の神社)に同じ願い事をしては効能がないと、
今なお地方の人達には かたく信じられています。
極楽山西方寺境内には熊野神社が祀られていますが、なぜ祀られているかというと、
平安時代、熊野権現は神仏習合思想の発展により、浄土教の普及から阿弥陀の浄土と感念され
その本地仏は阿弥陀如来とされましたので、もともと阿弥陀信仰が広がっていた貴族、
特に平家の人々はこぞって野熊野詣(くまのもうで)をしたのでした。
平治の乱の発端ともなった平治元年、平清盛がその子、重盛等と熊野参詣をしたことでも
平氏がことのほか熊野権現を信仰していたのがおわかりになると思います。
そんなわけで定義如来の鎮守の神として境内に熊野神社が祀られているわけなのです。
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