壇ノ浦 編
今から819年前、寿永4年(1185)3月24日(旧暦)
源氏と平氏の戦いの最後を飾る壇ノ浦の船合戦が関門海峡で華々しく行われました。
治承4年(1180)に源頼朝・頼政らが平家打倒の兵をあげて以来5年、
平家・源氏の最終決戦で、この時の船の数が平家500艘、源氏800艘といいますので、
死者の数は5,000人を優に越すのではないかと思われます。
戦闘は朝6時頃から始まります。
当初は海戦に慣れた平家がもう後が無い必死さと
御歳わずか8歳の安徳天皇を御座船にお乗せして、決しの覚悟で押しておりましたが、
昼頃、潮が速くなりだすと平家と源氏の船がいたるところで接触。
接近戦になって源氏は次第に挽回し始めます。
また、当初平家方はわざと、いかにも貴人が乗っていそうに見える目立つ船をおとりにし、
実際の要人は小さな船に乗せるという目くらまし戦法をとっていましたが、
これも時間が立つにつれバレてしまい、源氏はターゲットを間違えないようになってきました。
源氏が少しずつ挽回していくと平家方から源氏方へ裏切る者も相次ぎました。
そうして戦局はわずか1時間ほどで逆転してしまいます。
4時間にわたる戦いは源義経の作戦が勝利をもたらし平氏は敗れました。
平家の者たちは敗戦を認識し、源氏の手にとらえられる前に死を選ぼうとします。
経盛と教盛、資盛と有盛、なども手をつないで一緒に水の中へ消えて行きました。
御座船では二位尼(平清盛公の妻で安徳天皇の御祖母時子)がまだ8歳の天皇を胸に抱き
「波の底にも都がございますよ」
と天皇に申し上げ、三種の神器を身につけてご一緒に関門の海の底深く沈んで行かれました。
つづいて女官たちもあとに続きました。
赤 間 神 宮
JR下関駅から国道線バスで約10分、「赤間神宮前」下車すぐ下関市には安徳天皇を祭った赤間神宮あり、
この合戦で亡んだ平家一門の墓があります。
耳なし芳一の話もここを舞台にしたものです。
また、隣接して、安徳天皇阿弥陀寺稜もあり、
毎年、5月2日の安徳天皇の命日より3日間に亘って、先帝祭も行われています。
先 帝 祭
源平の戦いで壇ノ浦に入水した安徳天皇を弔う。
もとはその忌日である陰暦三月二四日に先帝会と称して阿弥陀寺で行われていました。
明治以後阿弥陀寺を廃し、赤間宮となってからは御陵正辰祭と称して、
毎年5月2日御陵前において宮司以下神職により慰霊祭が行われています。
先帝祭上臈道中は、女郎に身を落とした平家の女官が、安徳天皇の菩提を弔うために
参拝したことが始まりといわれています。
毎年5月3日に行われ、同時に行われる海峡祭とともに下関を代表する年中行事の一つです。
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