58.心と体を癒し育てる≪道場≫


【成仏(じょうぶつ)】とは本来、煩悩を断ち切り輪廻の苦しみから解放され、

さとりを開いて覚者(ブッダ)になることをいいます。


しかし、日本では死んだあとに心安らかに暮らせる天国のような所へ行くことを

「成仏した」と言うのです。



ですから「成仏していない・・・」ということは、

死んだ人の魂がこの世をさまよっていることを意味しているのです。




しかし、私たちのように常に霊と関わっている立場の者から言わせていただくと、

日本的な「成仏した」「成仏していない」という言葉にとらわれない考え方の方が良いと思います。




大事なことは亡くなられた方がどのような心の状態になっているか?

という事です。



そして新たな世界(来世)に旅立てる態勢になっているかどうかが問題です。




例えば、私が霊視をしている時に

「あなたの後ろには、軍服姿の方がおられますね」と言うと、

「うちではご先祖様をちゃんと供養していますので、成仏していないはずがありません!」

と言って怒りだす方がいらっしゃいます。




しかし、これは別に霊が私たちのそばに姿を現したからといって、

その霊が浮かばれていないというわけではありません。



つまり成仏していないから現れるのではないのです。




先程も申しましたように問題は成仏しているかどうか? ということではなく、

死んだ後にどのような状態になっているかが重要なのです。



出来れば生まれ変わっていることが望ましいのですが、

生まれ変わっていないからといって問題だ!

というわけでもないのです。



それは霊の中には生まれ変わりたくない霊もいるからです。




要するに生まれ変わるかどうかは霊の自由意志によるものも多いのです。




霊の心に執着しているものがあると、

いつまでもこの世に留まり姿を現すのであって、

霊の心にとらわれるものが無くなれば「人生をやり直すぞ!」という具合に生まれ変わるのです。




例えば守護霊がかわいい子や孫に対して、

「もうこれで、私がついていなくても安心だな!」と思えた時に、

守護霊は心おきなく生まれ変わるのです。




チベット仏教などでは、この「生まれ変わること」を認めているのですが、

そうでない仏教徒もいるようです。




これは別に批判しているわけではありませんので誤解なさらないでください。



例えば、浄土宗関係の考え方からすると、

亡くなった人は全て西方浄土へ旅たつことになっていますので、

霊となってこの世に戻ってくることはないと言うことになります。




そうなると浄土宗関係の方は、戦没者の霊が奉ってある靖国神社には

戦没者の霊は居ない! という考え方になります。



そうすると、戦没者の霊が居ない所には行く必要が無いということにもなってしまいます。



しかし、本当にその理屈通りで良いのでしょうか?




霊を視ている霊能者の立場から申しますと、実際は亡くなられた方の想いが強ければ強いほど、

気になる人のそばに寄り添って行きたくなるものです。



つまり、何処であろうと気になる人がいる所に霊というものは集まってゆくものなのです。




私たちはその霊に対して感謝の心を込めて敬い、礼をつくすことが大事なのではないでしょうか。



私共に近づいてくる霊のほとんどは、私達に縁のあるご先祖様関係の方達が多いようですから、

最終的にはその見守ってくれている霊たち(守護霊)に、

安心していただき新たな人生を歩んでもらうように働きかけることが大事なのです。



そして感謝とお礼の気持ちを込めて、

それらの霊たちのために来世での幸せを祈ることがとっても大切なことなのです。




そういう事ができる人間を育てていく場所が、我々の目指している【道場】です。



その【道場】が少しずつ発展し≪介護≫や≪ホスピス≫のような事ができる【楽園】にしていければ・・・

と考えています。




私は心と体を癒しながら、自分の才能に気づくための修行をしながら、

≪生きがい≫を見つけていく場所を作りたいと思っています。



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