39.「いのちあることの素晴らしさ」

by:義顕(YOSHI)


「母ちゃん、あとどの位、生きれると思う?」

2009年盆の帰郷時、深夜 弟と二人、四方山話をしていた時の事、ふと話題が母の事に。

「えっ?」 聞かれた私も困った・・

2008年春に、脳内出血で倒れた母。奇跡的に麻痺は残らなかったものの、以前の母には戻らなかった。 

帰郷するたびに、日に日に命の灯が確実に小さくなってゆくような、そんな風に見て取れた。

「あと、数年ってとこかも・・」やっとの思いで答えた。

遠慮して長めに言った私に、弟がぼそっと答えた。「俺はもっと短いと思う」

どきっとした。 母と共に暮らす弟の言葉は的を得ていた。



「俺の命を母ちゃんにやるから、母ちゃんに長生きして欲しい。

せめて静香(孫)の晴れ姿を見せてやりたい。俺は今までいい息子では無かった。

俺の命なんかいいんだ、母ちゃんに全部やる」

泣きながら訴える弟の涙を見て、私も冷静ではいれなくなった・・ 

(私の命も10年位差し出せば。二人分で20年だ。年寄りの10年分位には相当するだろう。

今まで苦労続きでやっと先が見えて来たところで命がつきるなんてそんな理不尽な話あるか)

そんなばかな事を真剣に考えた。



当時、ときまさにタイミングよく、つてで日宗先生の所に通い始めていたばかり...。

「先生、母の具合が芳しくないんですけど・・何とか延命できませんでしょうか。

自分達の命を削ってでもいい、助けて頂きたい」

真顔で先生に訴えた。先生もお困りになった事と思うが、当人は大真面目だった。

「妙光先生の気功を受けてごらんなさい。

命のつけかえなどと馬鹿な事言ってないで、まず妙光先生の気功を受け、

神仏へのお参りをしてみてください。きっとお母さんは元気になりますよ。」とアドバイスを頂いた。

気功という言葉は知っていたが、それがどんなプラスの作用をもたらすのか、

神仏への御参りというがどんな風に行ったら良いのか、正直ぴんとこなかった。 



ましてや、母は北国が住まい。現実問題として東京に連れてくるのは大変なことだった。

なので最初は「病気平癒」の祈祷からお願いさせていただいた。

しかし一方では、祈祷だと母にどの程度のインパクトがあるのか見えてこないという、思いもあった。

(先生すみません。今では祈祷の力もすごいと分かりますが、当時は何もわからない自分でした)



「直接気功が一番、いいんですけど・・」ある日の、妙光先生の一言に 私のヤルキ魂に火がついた。

「やってやる! 何としても母を元気にしてみせる。母のいのちが今終わるわけが無い!」

毎月の新幹線での上京の世話。と同時に七面山参り、伏見の瘡守稲荷参り、

気功と御参りでほぼ、気がつけば神様だのみの日々

(以前のぐーたらくな自分には有得ない生活)と、かした。



最初は北国から、しぶしぶ気功を受けに上京していた母も、

気功をして頂き、やがて母の目に活力が戻り、

外出を厭わなくなるほどに元気が蘇ると、気功の予約日を心待ちにするようになった。

最初の気功から半年もすると、

「いや〜、正直、年を越せるか危ぶんでいたよ」と後日談をくれた親族が

目をみはるほど母のいのちは輝きを取り戻したのだ。



妙光先生の気功はすごい。

正しい修行をされた先生には神仏がお味方されるのだなあ、と思う。

私も仕事人間なため、ほぼ毎月、よれよれの状態で先生の気功に通わせて頂いている。

(別世界のエネルギー・・)気功を受けるたびに勝手にそう思っている。

医学でカバーできない、人間個体の免疫レベルに浸透するようなエネルギーだと。

(現代の医療技術は素晴らしいものですが、

ただ、科学や医学だけでは救えない部分も現実的にはあるということを伝えたいのです)



そしてこの一月、母の可愛い孫娘が成人式を迎えた。

恥ずかしそうに、晴れ着を着てにっこりと微笑む孫。

「おばあちゃん、静香は二十歳になりました」



この可愛らしい晴れ姿は、母の、そして、あの時、「晴れ姿をみせてやりたい」と泣いた弟が

どんな熱い思いで見つめた事だろう、と その弟から写メールをもらって私も感慨深い。

あの時の弟の涙を私は忘れることができない。



私たちは、妙光先生に助けて頂いた。

その妙光先生を育て導かれたのは、日宗先生である。



「いのちあることは素晴らしい」。 一日一日を、懸命に生きていくことこそが今生の修行なのかな、とそのように思う。 

このような 人々を救うお力のある先生方に出会えた私たちは、本当にラッキーだったと思っている。



平成23年1月10日   義顕(YOSHI) 



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