信仰

              



私達は、お参りに行く時には「白装束」で行くことにしています。



なぜ白装束で行くのか?



それはお参りが真剣なものだからです。



普通の生活上でもお礼を言う時、謝る時、そしてお願いする時には、

真剣にならなければ相手に通じないでしょう?



神様も同じなのです。



観光気分のような浮ついた気持ちでお参りに行って、

いったい誰があなたの心を信じてくれるでしょうか。



白装束は、「死装束」です。



「もし、修行中に死んだら、そのまま棺に入れてもらえばいい、

そしてお参り中に死んだとしても、それは本望だ!」

と思うくらいに命掛けでなければ、神様に真心が通じないと

思うからこその白装束なのです。



白装束姿でお参りなんて・・・

「他人になんて思われるだろう?」そう思うかもしれませんね。



しかし、他人がどう思うかなど、どうでもいいことなのです。



お参りは、神様に真心が伝わればいいのですから・・・



命掛けでやるからこそ、あなたの想いが神様に通じるのです。



お参り(修行)は、その「信仰」を表す行動です。



ですから、お参り(修行)というのは本来無事に帰って来られるように

祈りながら行くものではありません。



このお参り(修行)をすることによって、

死ねるなら本望だという真摯さがなければ、

良いものなど掴めるわけがないからです。



そして、「信仰(神を信じ、その道を歩むこと)」と「生きること」は

直接つながっています。



ですから、その人の「生きざま・死にざま」が、

そのままその人の「信仰」を表しているのです。



勿論、人それぞれの人生ですから、

自分のために生きるのは当然のことです。



でも、人生において本当に大切な事は、

「他人のためにどれくらいの汗や血を流せるか?」なのです。



つまり「この世で、いかにうまく生きるか」ではなく、

「他人のためにどれだけのことをして死ねるか」が重要なのです。



今から約370年前、江戸幕府は隠れキリシタンを

探し出すために「踏み絵」というものを用いました。



日頃、信仰を強く持っているように見えたキリシタンでさえ、

本当に心が定まっていない者はキリストの絵を踏んでしまったことでしょう。



しかし、たとえその信仰心が強かったとしても、踏み絵を踏むときに

罪悪感に苛まれ、足を震わせていたとしても、「踏み絵」を踏んでしまえば、

その人の信仰心はただ「それだけ」のものだ

ということになってしまいますよね。



大事なのは「その時の行動」なのです。



「踏み絵」を前にした時、

胸を張って「私はキリシタンです!」と言って死にたいものです。






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