彦島


12世紀後半の源平の時代、
ここ彦島は平清盛の息子、平知盛とももりの所領地でした。

当時平家は木曽義仲によって京都を追われ、

瀬戸内や九州各地を流浪する身となっていました。



寿永4年(1185)2月、

屋島の合戦で敗れた平宗盛を総大将とする平家一門は、

平知盛が平定した瀬戸内や、九州の平家方を頼りにして
体制の立て直しを計ろうとして、瀬戸内の西側の守りの要衝ようしょうである彦島にやってきました。


彦島は平知盛の築いた彦島城を中心とした平家の要塞(ようさい)となっており、

一門を追って西下してくる源義経を迎え撃つ準備が着々と進められました。



そして、寿永4年3月、

源平最後の決戦である壇ノ浦の戦いが起きるわけですが、

この戦いに平家方はここ彦島の福良(現在の福浦港)を最期の出船の港とし、

海峡の潮の流れを知り尽くした猛将平知盛の指揮のもと

天皇の御座所を持つ巨大な唐船をはじめとした多くの船で次々に海峡に出ていきました。


安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や

母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も多くが一門と共に船出しましたが、

平宗盛は女性には自分たちと共に戦に出ることを強制せず、

希望する者は一門から離れて島に残ることを許しましたので

多くの女性が島に残って戦いの行方を島影で息を殺して見守っていました。

 

壇ノ浦の合戦は、当初は潮の流れを借りた平家方が優勢でしたが、

四国や九州から参戦していた郎党の相次ぐ離反や、

当時の舟戦のルールを破って、平家方の船の船頭を次々に射殺して

船の自由を奪う作戦に出た源義経の奇策によって、

朝から始まった戦は夕刻には平家の敗色が濃くなっていました。



運命を悟った平家一門が男と言わず女と言わず次々に壇ノ浦に入水して

源平の最期の合戦は源氏方の勝利で終わりました。

このとき、安徳天皇は祖母二位の尼に抱かれて入水し、

天皇の象徴である三種の神器のうちのひとつである宝剣も失われました。


戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は

串崎(現在の長府外浦)、赤間関(現在の唐戸付近)、

彦島に次々に上陸しました。


「新平家物語」によると義経は彦島に、

梶原景時は串崎に上陸して仮の住まいをしつらえたとされています。

源氏軍は京都を出て以来の、瀬戸内の凶作による食糧難や、

義経得意の不眠不休の強行軍のために、軍のモラルは非常に低下しており、

上陸した兵士の多くは半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を荒らし回りました。


平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女ぞうしめたちは、

島内の平家一門の住居跡や漁師の家にかくまわれるなどして潜んでいましたが、

彼女たちは、ここまで日夜、戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、

源氏の兵士達は許されざる陵辱の限りを尽くしました。

多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、

また、誇り高き平家の女性達は命だけは助けられてもその多くは自ら命を絶ちました。



ここ身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦からはもっとも遠く離れた地であり、

義経が占領した御座所(彦島城)からも遠く離れた寂しい漁村でしたので、

特に多くの女性達が隠れていました。

したがって、被害にあった女性ももっとも多く、

彼女たちはある者は源氏の兵の手から逃れるため、

ある者は受けた辱めに耐え切れず、次々にこの身投げ岩の断崖から

当時日本でもっとも流れの速い海峡だったこの小瀬戸に身を躍らせたのでした。



彦島で細々と漁師を営んでいた男達は、

島の人々を非常に大切に扱った知盛のお役に立てるなら・・・と、
平家の軍船の舵取かじとりや水先案内人として一門に同行しました。


それまでの水上戦の常識であれば、彼らのような現地で雇われた水夫達は、

たとえ平家が滅ぶとも、命だけは助けられるのが当然でしたが、

義経の奇策によって、源平の争いにはなんら関係のない彼らまでもが皆殺しにされ、

また、島に残った女性達もその源氏の兵士達の傍若無人な振る舞いによって多くが命を落としました。



現在の島には源氏にまつわる史蹟は何一つ語り継がれておらず、

源平の合戦から800年がたった今でも、
この地は強烈な「平家贔屓びいき」の地として、平家の哀話が大切に語り継がれています。


平宗盛が早々に放棄して逃げたため、源氏軍の滞留がなく、

彦島ほどの被害を受けなかった屋島(香川県)には

源氏に関する史蹟が数多く残されて、今では観光資源として扱われているのとは非常に対照的です。


(ウェブサイト「日子の島」http://hikosima.com/様より引用させていただきました。有難うございました。)




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